なんでこんな思いまでしてやらなくてはいけないのだろう。
自分は損をしてばっかりだ。
仕える生き方をしていると、そう感じるときがあります。
確かに、サーバントの生き方は、決して自分だけが得をして、ひとり勝ちするものではありません。
では、サーバントはどのようにこのことを考えるのでしょうか。
なんでこんな思いまでしてやらなくてはいけないのだろう。
自分は損をしてばっかりだ。
仕える生き方をしていると、そう感じるときがあります。
確かに、サーバントの生き方は、決して自分だけが得をして、ひとり勝ちするものではありません。
では、サーバントはどのようにこのことを考えるのでしょうか。
こんなに一生懸命にやっているけれども、果たして意味があるのだろうか。
結局、何の変化もなく、やっていることが無駄になってしまうのではないだろうか。
自分を犠牲にすればするほど、ムダになったら…という思いが湧いてきます。
サーバントはそんなとき、どんな考え方をするのでしょうか。
植物を育てるのは大変なことです。種を蒔き、水をやり、手入れをして育てていくと、やがて花が咲き、実がなります。
手もかかりますし、時間もかかります。
庭先で草花を育てるのであれば、自分でなんとかできることもたくさんあるでしょう。
山の木々を育てるともなれば、はるかに時間がかかります。人の手でコントロールできる要素も限られるでしょう。
人のためになることを計画して実現するのも同じです。
多くの手間を必要とします。
たくさんの人の関わりが求められます。
失敗や困難、さまざまなプロセスを経ることになるでしょう。
長い時間がかかって、ようやく実現に至ります。
多くの人を巻き込み、社会を動かすほどのことを願うなら、もっと大変です。
実現までのプロセスははるかに複雑になるでしょう。
必要とされる協力も、リソースも、ひとりの人の手に負える範囲を越えます。
想像以上に長い時間がかかるでしょう。最初の世代で実現を見ることはないかもしれません。取り組みが継続し、人材が育つ中、次の世代、さらに続く世代のときに実現するかもしれません。
粘り強く、あきらめないで関わり続けることが求められます。
よい働きの実現のためには、根気よく取り組むことが必要です。あきらめずに継続するために、サーバントは二つのことを心にとめます。
ひとつめは、自分の限界です。
ひとりの力は限られています。
何もできないことはありませんが、すべてのことを完璧にすることはできません。
思った通りに現実を動かし、願った通りに人を助けることができたら、どんなにすばらしいでしょう。でも、そうはなりませんし、そうなることを期待するのも間違っています。
もし、自分が万能であると信じ込んで、理想を実現しようとすれば、自分自身を追い込むことになります。まわりに対しても、できない要求をすることになるでしょう。
自分一人ができることには限界がある、とわきまえるとき、現実的な取り組みとなります。それは、とても健全なことです。
ふたつめは、良いことがもつ力です。
種にはやがて実となるいのちが宿っています。長い過程を経て、条件が整えば、あらゆる逆境の中でも花を咲かせ、実をつけることができます。
同じように、サーバントが志として抱く良いことにも、それ自体にいのちがあり、力があります。
すべてのことが完璧に整わなくても、良いことそのものに秘められた力が現実を動かします。良い取り組みであるゆえに人々の興味をひき、多くの人たちの協力を生み出し、具体的な取り組みにつながっていきます。
サーバントは、良いことを実現させる潜在的な力を信じます。
これが、希望を持って取り組み続ける秘訣です。
それにしても、私たちの手が及ばない、様々な外的な要因があります。
自分の行動については、努力して取り組むことができます。まわりの人も、力を合わせて協力することができます。良いことのもつ力が多くの人を巻き込み、知恵と力を集結してかなりのことを実現できるでしょう。
それでもなお、どうにもならないことがあります。私たちの範囲を越えた部分です。
祈りなんていうと、すべき努力もしないで神だのみかと思われるでしょうか。
力のない者が神にすがっていると笑うでしょうか。
ついにあきらめて運まかせかと嘆くでしょうか。
でも、とことん自分のできるすべてをやり尽くしたら、あとは祈るしかないというのがサーバントの率直な思いです。「人事を尽くして天命を待つ」というやつです。
祈るとき、空を見上げて願いごとをあてもなく言葉にするだけなら、虚しいことです。
「偶然でもなんでも、どうにかうまくいきますように」では、あまりにも心許ないものです。
祈りとは、世界を治めている大きな方に向かって、自分の想いと願いを遠慮なく呼びかけることです。その方は、空想の神ではなく、実存する生きた神です。
サーバントはこう信じます。
これが、サーバントの確信であり、希望の源であり、原動力です。
森林は長い時間をかけて育てられます。成長する木もあれば、老いて枯れていく木もあります。毎日、かけがえのない生命のドラマが繰り広げられています。大きなものから小さなものまで、すべてが大切な役割を果たしながら、ひとつの森林として成長します。
私たちの歩みも、神の手の中にある森林のようです。
いつの日か、私たちの歩みが、豊かないのちのあふれる壮大な森林として、人々に憩いをもたらす日が来ますように。
サーバントは、熱意を持って取り組むことが、一朝一夕には実現しないことを知っています。自分自身の力の限界もわきまえています。それでも、良い取り組みそのものがもつ力を信じ、その背後にある神の御手を信じて取り組み続けます。
人の評価は気になるものです。
やってもやっても、誰も認めてくれない。それでは、嫌になってしまいます。
何で評価されるのか、それをきちんと理解していないと、自分の中でむなしさばかりが大きくなります。
人は、いったい何をすることで評価されるのでしょうか。
人生の目的は何でしょう?
私たちは、いろんな目的を考えます。
さまざまな小さな目的に目移りして、あれもこれも実現する人生がいい、と考えます。
もちろん、良い人間関係、仕事の成功、財産、充実した余暇、趣味の楽しみ、どれもあって悪いものではありません。
それが手に入れば、人からうらやましがられます。
しかし私たちの歩みは、何かを手に入れることが目的ではなく、何を得たかで評価されるものでもありません。
サーバントが考える人生の大きな目的は、神から与えられたものを用いて人に仕えることです。
何かを得ることに関心を向けることはありません。神から良いものを十分に与えられているからです。
むしろ、与えられたものを十分に用いることに関心が向いています。
多く与えられた人は、多くを成し遂げることが期待されます。そのためにふさわしく取り組むことが必要です。
少く与えられた人も期待されています。与えられたものを用いて、ふさわしく取り組むことが求められます。
サーバントは、与えられているものに目を向けて、何のために用いるのか、どのように用いるか、ということを常に考えています。
与えられているものの用い方には、大きくわけて二つの目的があります。
ひとつは自分のために用いることです。自分が満足できるように、自分の楽しみのため、喜びのために、それを用います。
もうひとつは、他人のために用いることです。みんなで喜びを分かち合うため、大切な人の助けになるためです。お互いのために、喜んで差し出し、分け与えます。
与えられているものを自分のために用いることは、悪いことではありません。神は私たちによいものを与えてくれました。大いに喜び、楽しむためです。
ただし、独占したり、他の人のものにまで手を出すのは、間違っています。
同じ与える行為でも、自分のエゴのために与えるのも間違いです。
自分の言うことを聞かせるために与える、優位な立場を守るために与える、尊敬されるために与える。
気前よく与えていたとしても、これらは本来の与え方ではありません。
サーバントは、相手のために差し出します。
相手によいものがもたらされ、相手が成長し、相手が成果を出すことができるように与えます。
与える側が主役ではありません。与えられた側にこそスポットライトが当たります。
それがサーバントの目指すところであり、喜びでもあります。
もうひとつの評価基準は、与えられているものをどのように用いるかです。
心をこめて用いること、思慮深く用いることが求められます。
どれだけ差し出したかは問われていません。確かに多くを用いれば、より多くの人を助けることができるでしょう。少ないものでは限られた範囲でしか助けることができません。
しかし、量の問題ではありません。どんな思いで差し出すのかが問われます。
有り余るほど多く与えられている豊かな人が、何も考えずに百のことをしたとしましょう。一方、わずかしか持たない貧しい人が、なけなしの犠牲を払って、心を込めて一のことをしたとしましょう。
ふさわしいと評価されるのは、貧しい人です。量で言えば百分の一のことでしかないのに。
なぜなら、心をこめてそれをしたからです。
与えるにあたっては、不安も、恐れも、葛藤もあるでしょう。
それを乗り越えて具体的に行動します。足を運び、耳を傾け、声をかけ、手を差し伸べます。
心をこめて仕えるのがサーバントです。
さらには思慮深さが求められます。
サーバントは与えられているものを精一杯、最大限に活用することを心がけます。
多くを与えられた者は、すべて差し出し、効果的な取り組みになるように努力します。少なく与えられている者も同じように、すべて差し出し、効果的な取り組みになるように努力します。
一番よい形、与えられたことにふさわしい、効果的なものであるように考え、工夫し、実行するのです。
サーバントは、与えられているというよりは、管理を任されていると考えます。
主人の意向に従って、一番ふさわしい形で用いるように管理し、運用に励むように任されていて、その責任を精一杯に果たそうとしているのです。
サーバントは、与えて仕えることこそが人生の目的であると考えます。何を得るかよりも、手にしているものを心を込めて、思慮深く与えることに価値を見出します。
一生懸命に取り組もうとすると、同時に反対する人が出てきます。
協力的でない人の姿も目につくようになります。
そんなとき、自分たちだけが良いことをしているのだ、と考えてしまってよいのでしょうか。サーバントがより多くの人の協力関係を広げていく考え方を紹介します。
自分が一生懸命に取り組もうとするとき、必ずと言っていいほど反対する人が現れるものです。その人をどう受け止め、どう向き合ったらよいか、とても大切な課題です。
一つの選択肢は、相手を敵だと見なして戦うことです。
主張をぶつけ、相手を言い負かして、自分の方が正しいと納得させることです。より多くの人を味方につけて、数の力で押し切ることもあるでしょう。
もう一つの選択肢は、相手の主張を理解し、歩み寄れるところを見つけることです。
サーバントは後者の取り組みを選びます。
私たちは、それぞれ自分がよいと思うことを行います。あからさまに悪いことをわざわざする人はいません。
考え方の違い、やり方の違い、強調点の違いなどがあり、意見が衝突します。
それは、お互いによいことを意図して取り組もうとしている結果です。
多くの場合、どちらかが百パーセント正しくて、どちらかが百パーセント間違っているということはありません。どちらの言い分にも聞くべきところがあります。
意見が異なるとき、それを人間の優劣に置き換えてしまうのは避けなければなりません。
私の意見は正しい、ゆえに私は優れた存在だ。あなたの意見は間違っている、ゆえにあなたは劣った存在だ。そんなふうに主張し始めたら、お互い引くに引けません。
意見の違いは、ただ意見が違うだけのことです。
優劣をつけて、相手の存在を否定するようなことは、決してあってはならないことです。
私たちは、神によっていのちを与えられた尊い存在です。しかも、一人ひとりが個性をもつ、ユニークな存在として生かされています。
その違いを活かし、お互いに助け合うのが本来の姿です。
もちろん能力の違いはあります。知識が豊富な人もいれば、不十分な人もいます。短時間に多くの仕事ができる人もいれば、長時間かけてじっくり仕事をする人もいます。事務能力に長けている人もいれば、営業力に長けている人、企画力に長けている人、対人関係能力に長けている人もいます。
それぞれにできること、できないことが違っているだけであり、人間としての優劣ではありません。
人種や文化、伝統、育ちの背景が違うでしょう。性格、関心、信念なども違います。一人ひとりがユニークな存在です。
お互いに違う一人ひとりの存在によって社会は構成されています。
みんなが私と同じだったら、意見の衝突こそないかもしれませんが、社会として成り立ちません。
それぞれの違いが組み合わさって、豊かな社会が実現しているのです。
サーバントは、意見の違うお互いを敵とみなして排除しません。むしろ、違う意見を持つ人も必要だと考えます。そういう人がいてくれてこそ、さらに多くの人との協力関係が広がっていくのです。
意見の違う人は敵であり、競争相手だと思えば、好戦的になります。
言葉のはしばしにトゲが感じられるようになります。
相手のあら探しをし、自分を守って防御を固めるようになります。
本心を見せないように警戒するでしょう。
これでは協力関係を築くことができません。
意見の違う人は、自分の考えを広げて深めてくれる人です。
よく聞いて十分に理解するならば、自分には見えていなかったことや意識していなかったことに気づかせてくれます。
すべてに同意する必要はありません。
必要以上に警戒することなく、さらに良い取り組みのためのヒントがないか、心を開いて耳を傾けるようにしましょう。
相手を信頼することも大切です。たとえ意見が違ってもです。
結果に至る過程や考え方は違っていても、大きな目的は共通です。
であれば、信頼し協力すべき仲間として歓迎します。違いが大きな問題とならないように、役割の分担や距離のとり方などに配慮することも必要です。
こうして、多様な意見を包括しながら取り組みが進むことによって、自分一人を中心とした協力関係よりも、さらに多くの人たちが加わることができます。
大勢が喜んで関わることのできる息の長い取り組みになって継続していきます。
サーバントは敵を作りません。違いを優劣の問題にすることもありません。むしろ、違いを生かして、お互いのための協力関係を築き上げます。これによって、より広がりのある協力関係が生まれます。
いろいろ説明して、やってもらうぐらいなら、自分でやったほうが早い。
自分でできることを人にやってもらうのは気が引ける。
そんなふうに思って、ついつい自分で何でもやろうと、抱え込んでしまう傾向がありませんか。
サーバントは、自分の責任をきちんと果たしながらも、協力の輪を広げていくことを心がけています。その考え方を見ていきましょう。
こんな小さなこと、やっていて意味があるのだろうか。
もっと大きな取り組みを華々しくしたほうが良いのではないだろうか。
そんなジレンマを抱くことがあるでしょう。
それでも、サーバントが小さなことに取り組み続けるのには、理由があります。
人のために、とは思うものの、自分だって…
そう思うのは、とても自然なことです。
他人のためと自分のため、どうやってバランスを取ればいいのでしょうか。
この考え方を理解して、自分なりのバランスを見つけてください。
使命感をもって、精一杯に頑張ろうと思ったのに…
こんな状況じゃ、とてもではないけれど手に負えない。
どうして、みんな協力してくれないのだろうか。
どうしようもなく感じてしまうことってありますよね。
そんなときに、この考え方を思い出してみてください。
人を助けて、仕えて生きたいのに、そのための能力がない、と嘆く人がいます。
確かに、すごくデキる人と自分を比べたら、そう思うでしょう。
自分にできることなんて、ほんの少しで、意味がない、と。
サーバントの特徴的な考え方のふたつ目は、能力に対する考え方です。
誰であっても、それぞれにユニークな、役に立つものをもっているというのです。
人生の目的は仕え合うことで、他者と競争して勝つことではありません。
競争は、自分と他人との比較です。
多くのものを手に入れることによって、他人より優位な立場を得ることができます。
たとえば、経済的にうるおっていれば、自分も満足できるでしょうし、人からも羨ましがられるでしょう。
良い業績をあげれば、評価されて、仲間より早く昇進することができるでしょう。
素敵な洋服を着て、好きなところを旅行し、仲間と楽しく過ごして「いいね」をたくさんもらえれば、優越感に満たされます。
そうやって、自分のために人より多くのものを得ようとするのが競争です。
しかし、サーバントは自分のために得ることで満足しません。
人を富ませようとします。
自分が手に入れたものを与えることによってです。
この世には多くのよいもの、私たちの心を満たすもの、すてきなものがたくさんあります。
ふさわしく活用すれば、相手を幸せにするために役立てることができます。
サーバントは、自分が手にするものは活用するために任された預かりものなのだ、と理解します。
「私は特別なものを持っていない」
「人のために役に立つものなど何もない」
という声が聞こえてきそうです。
特別なものでなくても、どんなものでも、人のために用いることができます。
あたたかい気づかい、力ある立場、率直な言葉、その他のあらゆるものが人の助けになります。
すべてのものは道具として用いられます。
自分のためだけに使うのか、人を傷つけるために使うのか、それとも人を助けるために使うのか、それはあなた次第です。
サーバントは、生きる目的が誰かを笑顔にすることだと自覚しているので、あらゆる良いものを惜しみなく人のために用いるのです。
サーバントは、人との競争に巻き込まれません。自分に与えられているものは、人のために役立てることができると知っています。そして、喜んで、それを活かします。
仕える生き方をしていると、時々、どうしてこんなことをしているんだろう、と思うことがあります。
その答えが明確でないと、もうやめてしまおう、と思います。やってられない、と感じるでしょう。
仕えて生きることの信念はどこからくるのでしょうか。
サーバントの特徴的な考え方の1つめは、この問いかけに答えを与えてくれます。
どうしてこんなことをしているのだろうか、と気持ちの迷いが生じたら、思い出してほしい事柄です。